風の狩人


第1楽章 風の紋章

4 命の残像



病院が燃えていた。白い外壁はどす黒く濁り、赤くおぞましい炎の手が窓の内で奇怪な咆哮を上げていた。
大勢の野次馬と放物線を描いて行き交う水と消防士達。
龍一は、呆然と立ち尽くしていた。母が龍一の病室を出てから、まだ1時間も経っていなかった。出産が始まるからと父に呼ばれたのだ。産科医の父と助産師の母。二人は、そうやってこの風見産婦人科で命を取り上げて来た。町でも評判のいい病院として有名だった。出産が始まると夜でも呼び出され、龍一は、それなりに寂しい思いもしたが、それでも彼にとっては、そんな両親が誇りだった。病院は命の城だと父が言っていた。

その城が燃えているのだ。父は? 母は? そして、入院していた人達は? 赤ん坊は? 龍一は急いで人込みをかき分け前に出た。見回すと、ネグリジェにガウンを羽織っただけの女の人や泣いてる赤ん坊を抱いて呆然としている男の人、看護師さんに抱きかかえられ救急車に乗せられようとしている女の人などが目についた。
(よかった。みんな、助け出されたんだ)
そう思った時、不意に背後から声が聞こえた。
「おい。まだ、出て来ないぜ。院長先生」
「ああ。赤ん坊と助産師を助けに戻ったきりだって。だけど、もう時間が経ち過ぎてる。おれ、あの院長知ってるんだ。いい人だったのに……」
その言葉に、龍一は衝撃を覚えた。
「父さん……」

龍一はサッと向きを替え、人込みを縫うように駆け出した。そして、建物を迂回し、細い路地を抜けて病院の裏にある自宅へ向かった。が、病院と棟続きに建っている自宅も既に炎に包まれつつあった。消防車がこちらからも放水していた。が、人はそれ程いない。龍一は、2台の消防車と懸命に消火活動をしている隊員達をすり抜けて家の中へと飛び込んだ。
「あっ、君! 待ちなさいっ! 君!」
背後で呼ぶ声が響いたが、龍一は無視した。そして、真っ直ぐ病院へ続く通路を抜けて、扉を開けた。もうもうと煙が立ち込めていた。

「お父さんっ!」
龍一が叫ぶ。が、返答はない。龍一は、さらに奥へ新生児室がある2階を目指した。階段の途中で、龍一は何度も咳き込み、薬品と物の焼けるいやな匂いに嗅覚と涙腺をやられて何度も呼吸が止まりそうになった。頭上からは熱が吹きつけ、焼けた何かがバリバリと砕ける音が響いてくる。龍一は口と鼻を押さえ、身を低くして階段を上った。やっとの思いで2階へと辿り着いた時、炎の手が伸びて足元を掬おうとした。
「うわっ!」
龍一は、慌ててそれを跳び越え反対側の壁に激突した。その真上からパラパラと壁の一部が落下して来る。足下には、無残に散った薬品の瓶や銀のトレイや点滴薬などが散乱し、向かいの崩れた壁から炎が細く吹き上げている。

「熱い……」
壁も床も熱で拉げ、龍一は眩暈と息苦しさに喘ぎ、しゃがみ込んだ。
(だめだ。苦しくて、前が見えない……)
そう思って手をついた。と、その時、微かに赤ん坊の泣き声がした。龍一は、はっと顔を上げて前を見た。薄い靄の向こうに人影が見えた。
「と、父さん……」
龍一は立ち上がり、懸命に先へ進んだ。白い煙と、時折見える赤い炎の中を龍一は急いだ。ソファーやワゴンが行く手を阻んだが、龍一はそれらを超えて順調に進んだ。と、不意に前方の煙が消えて、ドアの上の表示が読み取れた。

「あれは、新生児室……あそこにお父さんが……」
ほんの僅か安堵したのも束の間。ガクンと体が大きく揺れた。龍一は凄まじい衝撃に翻弄され、向かいの壁とソファーの間に挟まれて胸と背中を強打した。
「う!」
何が起きたかわからなかった。が、次の瞬間。恐ろしい炎の壁が勢いよく新生児室へとなだれ込んできた。
「ひ……!」
龍一は思わず目を伏せた。炎がミシミシと不気味な音を響かせ、風圧で龍一の髪を焦がした。そして、彼は見た。その中でくすぶり、たぎる炎をけしかけるような闇の風を。だが、龍一には何も出来なかった。ただ、震えてそれを見ているだけしか……。
「闇が……! 闇の風が、どうして、ここに……?」

その時。
「龍一……」
弱々しい声がした。
「え?」
思わず目を凝らす龍一。前方、僅か2メートル程の所に父が倒れていた。手には、しっかりと赤ん坊を抱えている。
「父さんっ!」
少年は駆け寄った。
「龍一……この子を……」
そう言って、父は手に抱いた赤ん坊を差し出した。龍一は赤ん坊を受け取り、父の手を引っ張った。
「父さんもいっしょに……。早くここを出よう」
「いや。だめだ。おまえだけ、その子を連れて逃げるんだ。父さんは足をやられた。もう、歩く事が出来な……い」
「そんな……! いやだっ! いっしょに逃げよう。すぐに助けだって来るよ。だから、あきらめないで! お父さん……!」
が、無情にも、父子を引き離すように天井から壁から炎が降り注いだ。

「行け!」
そう言って、父は少年を力いっぱい突き飛ばした。間一髪。先程まで龍一がいた場所を、崩れ落ちた炎が舐め回している。
「うわあっ!」
龍一は悲鳴を上げてへたり込むと、赤ん坊を強く抱いた。と、その子が微かに声を上げた。
「龍一……」
炎の中で声がした。
「すまない……母さんを助けられなく…て……」
「お父さん……!」
ふと、龍一が前を見ると、父の後ろ、新生児室のドアの付近で燃え立つ炎の間から、薄いピンク色の白衣と床に落ちて燃えているナースキャップの3本のラインが一瞬だけ目に焼きついて消えた。龍一は呆然とそれを見つめた。燃え盛る炎の中で……。突然、赤ん坊が激しく泣き出した。その声にはっとして、龍一が立ち上がる。そして、後ろを向くと、一目散に駆け出した。が、どこもかしこも炎が伸びて、行く手を塞いでいる。

(だめか……)
そう思った時。龍一は、まだ火の手が回っていない一つの部屋を見つけ飛び込んだ。少しでも熱と煙から逃れたかったのだ。そして、その部屋を見た時、龍一は閃いた。彼がまだ小学生だった頃、病院を増設した時、使わなくなった階段を塞いだ部屋が一つあったことを思い出したのだ。龍一は急いで部屋の隅に置かれた書類棚の後ろを見た。間違いない。この棚の後ろが扉になっている。以前は棚等なく、龍一はよくそこで遊んだ記憶があった。

龍一は、片手で赤ん坊を抱え直すと、もう片方の手で棚をどかそうとした。が、びっしりと書類の詰まった棚はびくともしない。その間にも、容赦なく火が迫って来る。龍一は焦った。棚の扉を開け、入っていた書類を片端から投げ落とした。勢いで書類が舞う。それらは古いカルテなのだろう。中には太いマジックで黒く塗られた箇所もあった。そんな物でさえ、今の龍一にとっては、自分に向かって来る闇の風のように見えて恐ろしかった。龍一がようやく書類を出し終えた時には、すぐそこまで火の手が来ていた。彼は手足を使って強引に棚を引きずって押し倒した。書類の山が燃え、火の粉と火のついたそれらが飛び散り、彼に襲いかかって来る。
「くっ!」
後は、その鉄の扉を開けるだけだ。が、無情にも扉には鍵が掛かっていた。龍一は、何度もそのレバーを動かし、力任せに拳で叩いたり蹴ったりした。金属音が空しく反響した。向こうには明らかに空洞が開けているのだ。

「誰かっ! ここを開けてっ! 誰か……!」
その時、ついに炎が龍一の背を捉えた。と同時に、体ごとぶつけた龍一の勢いと衝撃で扉が開き、彼は赤ん坊を抱いたまま、勢い余って階段を転げ落ちた。その頭上すれすれを炎が凄まじい勢いで伸びて行く。まるで、掴みかけた獲物を逃した悔しさに猛り狂うように炎はそこかしこをまさぐっている。龍一は、思い切り背中と腰を打ったが、赤ん坊は無事だった。龍一は立ち上がり、よろよろと階段を降りた。髪の一部と服の端を小さな火が焦がしていたが、彼は気づいていなかった。
(早く外へ出るんだ)
それだけを考えていた。たかが十数段の階段が永遠の距離にも感じられた。そして、やっとの思いで下まで辿り着いた。が、そこも既に火の海に覆われていた。もう、どこにも逃げ場がない。ガクンと膝が崩折れた。意識がすーっと遠ざかる。

と、その時。
「君! 大丈夫か? 君」
消防隊員の銀の制服がちらりと見えた。龍一と赤ん坊はそれぞれ救出に来た消防隊員の手に抱かれていた。
「大丈夫だ。赤ん坊もこの子も。早く病院へ」
遠くで声が響いていた。すっと呼吸が楽になり、歓声のような声が遥か遠くで聞こえたような気がした。
(ぼくは、助かったんだ……)
途端に意識が遠のいた。
「風見!」
誰かが呼んでいる。何度も何度も繰り返し名前を呼ばれた。
(誰なんだろう?)
それは、確かに聞き覚えのある声だった。やさしい手が龍一の手を包み、それで少年は心から安堵し、微かに笑んで眠った。

「大丈夫でしょうか?」
不安そうな顔で結城が尋ねた。
「見たところ、火傷は大した事ないようですが、かなり煙を吸ってるようですね。この子の知り合いなら、いっしょに乗ってください」
と、救急隊員は言った。結城は頷き、車に乗った。闇の帳を縫うように赤いサイレン灯を点滅させて救急車は走り去った。


病院の廊下はしんと静まり返っていた。長い廊下を静かに人工の光が照らしている。整然と並んだ長椅子に腰掛けていた結城は、不安な面持ちでそのドアを見つめていた。先程までの喧騒が嘘のようだった。人、人、車。ざわめきと怒号。サイレンと足音。熱と炎、煙と闇の怨念が渦巻いていた。あの火事の現場では……。

「風見……」

そこに着いた時、まさか間に合わなかったのでは……? と結城は思った。浅倉の言ったように、自分はまた、大事な人を亡くしてしまったのではないだろうか、と……。その不安な気持ちを掻き立てるようにこんな声さえ聞こえて来る。
「院長先生の一家が焼死したらしいよ」
「良い方達だったのに……」
野次馬の中からすすり泣く声が聞こえた。恐ろしい闇の風が病院全体を取り巻いている。その闇に従うかのように、紅蓮の炎が神聖な建物を蹂躙し尽くしていた。その光景を目の当たりにした時、結城は強烈な眩暈と絶望を感じた。

「風見……」
結城は見えないタクトを強く握り締めた。それでも闇を払わなければならない。この恐ろしい暗黒の邪念を……。タクトを振り上げた時、背後で笑う声がした。

――ふふふ。言ったろう? 間に合わないって。おまえはまた救う事が出来なかったのさ

浅倉だった。男は、執拗なまでに結城を苦しめ、追い詰めてくる。

――ふふ。そうだろ? 直人

(黙れ!)
結城は、心の中で一喝した。振り向いても、そこに誰もいない事は承知していた。何故なら、ついさっき、自らの手でその男を、浅倉を葬って来たのだから……。

(あの時、奴は、本気で僕を殺そうとした)
激しい憎悪と嫉妬に狂った凄まじい怨念に支配された負の感情。浅倉は闇を繰り、襲いかかった。やられた……と思った。しかし、その瞬間。結城の中で、突然何かが弾けた。それは、かつて自分自身でも感じた事のない光の鼓動だった。風が舞い、強烈な光が炸裂し、闇を、そして浅倉の肉体を砕いた。そのあまりに強烈な波動が収まった時、結城は放心したようにその場に佇んでいた。一体、何が起こったのか。理解するまでに時間が掛かった。

空は澄み、欠けた月の光が静かに周辺を照らしている。
「僕は、奴を、浅倉をこの手で……」
事実を口にしても、不思議と罪悪感はなかった。いや、それどころか、心の中では安堵している自分さえいる。だが、理性が感情を制し、是非を問う。
(何故……?)
確かに、浅倉は危険な存在だった。だが、かつては親友でもあった。それは事実だった。
(ああ、僕は、本当にどうかしてる)
と結城は思った。
(3年前、断ち切った筈の過去が現れてから……)

そう。あれは3年前の秋。忘れ得ぬドイツから帰国すると、彼は宮坂高校で教鞭を執るようになった。初めからそうすればよかったのだ。そうすれば、ドイツで彼女に出会う事もなく、親友をこの手に掛ける事もなかった。そして、能力に目覚め、風の狩人になる事も……。そうすれば、日本でずっと平和でいられたものを……。だが、今は知ってしまった。もう、後には戻れない。たとえ、浅倉が死んだとしても、過去はまた別の形で彼を追って来るだろう。そうしたら、また、関係のない者を巻き込んでしまうかもしれないのだ。と、彼の眼前をすっと緊急車両の赤いライトが通り過ぎた。
「いや。駄目だ。そうはさせない。これ以上、犠牲者を出す事は出来ない。僕の生徒は、僕が守る」
結城は空を振り仰いだ。遥か彼方にサーチライトが光って見えた。
「そうさ。必ず、守ってみせる。風見……あの子も」


龍一はベッドで眠っていた。火傷と怪我のため、頭と手足に巻いている包帯が痛々しそうだ。が、命に別状はないと医者が言った。命には別状ないと……。結城は、そっと少年の手に触れた。早く目を覚まして欲しいと願って。が、それは、少年に残酷な現実をも突きつける事になる。龍一の両親は、鎮火後、二人共焼死体で発見された。病院は半焼、隣接していた母屋は全焼。救いは、患者や新生児、職員の中に犠牲者が一人も出なかったということ。そして、最後に、龍一が助けた赤ん坊も、別の小児病院に運ばれたが、異常はなく元気だという。

しかし、龍一は……。本当に、何もかもを失ってしまったのだ。
(龍一が助かった事で、浅倉の目論みは破られた。が、それは、同時にこの子を地獄の苦しみへと誘う事になってしまったのではないだろうか)
まんじりともせずに夜が明けた。龍一は、まだ眠っている。ずっと付いていてやりたかった。が、結城は行かなければならなかった。


外は、まだ夜が明けたばかりで、薄く靄がかかっていた。道路も建物も色彩をなくしたようなグレイに包まれている。そんな無機質な道路を走る結城の車もまた、無機質だった。内ポケットの辺りに重さを感じるのは、昨夜書いた退職届のせいだろうか。僅か便箋一枚の重さが、彼の人生の重さを増幅させていた。
(もう、学校にはいられない。何故なら、僕は、あいつを、浅倉をこの手で……)
ハンドルを握る手に力が入り、冷たい汗が彼の手に、心に、流れて行くのを感じた。結城は学校が、教師という仕事が好きだった。だから、辞めたくなどなかった。が、自分は、人間としてあるまじき行為をしてしまった。そんな者に、人間の子どもを教える資格はない。
結城は自嘲の笑みを浮かべた。
(わかっていたさ。いつか、こんな事になるんじゃないかと……予感していた)
突然、熱いものが込み上げて、結城はブレーキを踏んだ。
(わかっていた筈なのに……)
やりきれずに空を見た。曇天の空に光はなかった。空と境のないグレイの壁をぼんやりと見つめる。ふと、町名の表示が目についた。
「若宮五丁目……」
思わず声に出して読んだ。目的の場所とはまるで方向がちがっていた。道理で見慣れない住宅ばかりが並んでいる。
「どうかしてる」
結城は、心がしゃんとなるように声に出すと、軽く頭を振った。
(まず、学校に行き、辞表を出してから警察へ行く。そして、何もかもを話そう。浅倉の事も、闇の風の事も。警察は信じないかもしれないが、人が死んでるんだ。取り合わない訳には行かないだろう)

結城は、再び車を走らせようとエンジンを掛けた。と、そこへ、一人の老婆が通り掛かった。彼女の足元にはチワワが2匹、じゃれ合うように走り回っている。どうやら朝の散歩に出たところらしい。よくある光景だが、結城は、じっとその老婆に注目した。どこかで見たような気がしたからだ。が、一体どこで……?
「若宮五丁目……」
結城は、もう一度呟いた。それは、浅倉の家があった場所だ。老婆は、浅倉の家の隣の住人で、実際よく見かけたし、結城には、いつも親切にしてくれた。八十はとうに超えている筈だが、彼女は元気そうだった。結城は安堵し、彼女を見つめた。すると、チワワの一匹が急に駆け出して、結城の車の方に来た。彼女は制止したが、リードに引きずられるようによろよろと道路に出た。背後からバイクのエンジン音が聞こえて来る。

「危ない!」
結城は慌てて車から降りると彼女を引き寄せた。そのすぐ脇をバイクがスピードを上げたまま通り過ぎて行く。犬達がワンワンとバイクに向かって吠え立てた。そして、彼女は怯えたような顔で結城を見た。それから、すぐに微笑んだ。
「ありがとう。助かったわ」
彼女は礼を言うと犬達のリードを引き寄せた。犬は結城の足に纏わりついて、うれしそうにしっぽを振った。
「まあ。この子達はあなたが気に入ったみたいね。きっとあなたも犬がお好きなのね」
「ええ」
結城も微笑んで言った。すると、彼女は少し怪訝そうな顔をして何か考えるような仕草をした。と、ぱっとその顔が明るくなる。

「ああ。あなた、もしかして直人君? 茂君のお友達だった」
結城は頷いた。
「まあ。やっぱりそうなのね。すっかり立派になって。見違えちゃったわ。私の事、覚えてる?」
「ええ。もちろんです。牧村さんですよね? あの頃はとても親切にしていただいて。お元気そうで何よりです」
「まあま、懐かしいわ。今、何をしてらっしゃるの?」
「教職をとってます。高校で音楽を教えているんです」
と、結城はやや躊躇いがちに言った。
「それはまあ、立派なこと。よかったわね。おばさんもうれしいわ」
と、犬達の頭を交互に撫でながら言った。

「あの、ところで、浅倉のご両親はお元気ですか?」
と、結城が慎重に訊いた。すると、たちまち彼女の表情は曇り、僅かに俯いた。
「直人君、知らなかったの? 浅倉さん、亡くなられたのよ。1年半程前にね。警察じゃ事故だって言ってるらしいけど、きっと息子さんの後を追ったんじゃないかって」
「え?」
結城は一瞬、耳を疑った。
「息子さんって?」
浅倉は、結城と同じ一人っ子の筈だ。納得の行かなそうな結城の顔を見て、彼女は少し意外そうな顔をしたが、すぐに目を伏せて言った。
「茂君よ。かわいそうに。留学先のドイツで事故に合ったの」
「ドイツで? いつです? 僕もいっしょだったんです。大学を出てから、いっしょにドイツに行ったんです。3年前、僕が帰国するまで、ずっといっしょでした」
「まあ。では、あなたが日本へ来た後ね。確か2年程前だったと思うから。一人息子の茂君の事、相当かわいがってらしたから、ショックだったんだと思うわ」

「そんな……!」
結城は衝撃を隠せなかった。
(浅倉が死んでいる? しかも、2年も前に……? じゃあ、あれは? 昨日のあれは何だったんだ? まさか、幽霊だったとでもいうのだろうか? 幽霊だったとでも……?)
「かわいそうに。ショックよねえ。あなた達、とても仲がよかったんですもの」
彼女は、本当に気の毒そうに結城を見ていたが、ふと、気がついたように言った。
「ところで、こっちには何をしに来たの? もしかして、浅倉さんのお宅へ? だったら、残念だけれど、今はもう誰も住んでいないのよ。みんな、いなくなってしまったから。それに、今はあそこ、平地になってるの。そのうち、別のお家が建つんじゃないかしら」


結城は混乱していた。牧村のお婆さんと別れても、かつて浅倉の家があった場所が、本当に平地になっているのを確かめても、まだ、信じられない気持ちでいっぱいだった。
「浅倉が死んでいる! そんな、馬鹿な……!」
幻覚にしてはリアルだ。掴まれた時の感触が、熱い息遣いが、そして、昨日の戦闘でついた傷跡が、今も疼いて奴の存在をアピールしている。そして、龍一は……? あの病院の火事は偶然だとでもいうのだろうか? 結城は役所へ向かった。そして、はっきりと確認した。浅倉茂は死んでいる。2年前に、ドイツで……。これでは、たとえ、警察に行ったとしても、誰も信じてくれないだろう。被害者は幽霊なのだ。最後に結城は、もう一度、昨夜浅倉と対峙した場所へ行った。が、そこには、何の痕跡もなかった。奴の車も、傷ついたブロック塀も……。本当に何もかも消えてしまっていた。